だいごのじまん


46年ぶりの快挙 「新島襄 京都・安中 中山道ウォーク」 

田島 繁(元同志社中学校教諭、新島研究会会員)

 
 同志社の創立者・新島襄が徳富蘇峰ら教え子5人と歩いた同じ道を、気候のよいゴールデンウイークに、1日平均28km、13日間で歩く「新島ウオーク」をこの春実施した。
 長丁場だから部分参加でもと教え子や知人に働きかけた結果、初日と最終日には8人が参加した。
365kmを13日間、毎日平均28kmぶっ通しで歩く。「本当に歩けるだろうか。途中足マメができ歩けなくなるのでは?」と不安感もあった。そこでリハーサルを2回実施した。1回目は和田峠や碓氷峠対策として大文字山に登る13kmウオーク。2回目は長距離対策として同大の今出川校地から京田辺校地までの35kmウオーク。同大生の申込がなかったので彦根〜関ヶ原23kmウオークに変更。2回目リハを4/18(土)教え子の岸本君(院生)と時速3.8km でゆっくり歩き早めの足マメ対策ができた。その翌19日、パソコンを入れた鞄を肩に掛けようとしたら、「あ!…」ぎっくり腰だ。モンブランやマッターホルンに登った時も、直前にぎっくり腰になった。翌月曜日すぐ主治医の整骨院に行き、「先生!土曜日の出発に間に合うよう治して下さい」と。出発の前日、先生から「もう大丈分」とお墨付きをもらった。


「新島ウォーク」行程表

1日目 4/25(土) 同志社大学〜京都駅→[電車]→彦根〜関ヶ原  27km
但し 彦根〜関ヶ原は 4/18(土) のリハで岸本君と実施
2日目4/26(日) 関ヶ原〜赤坂〜美江寺〜加納(岐阜)     30km
3日目4/27(月) 加納〜鵜沼〜太田(美濃加茂)       25km
4日目4/28(火) 太田〜御嶽〜細久手〜大湫〜[ 車 ]〜大井   44km
5日目4/29(祝) 大井(恵那)〜中津川〜落合〜馬籠       18km
6日目4/30(木) 馬籠〜妻籠〜三留野〜野尻          23km
7日目5/1(金) 野尻〜上松(寝覚ノ床)〜福島        29km
8日目5/2(土) 福島→[電車]→薮原 (鳥居峠)〜奈良井〜洗馬  38km
9日目5/3(祝) 洗馬〜塩尻 (塩尻峠) 〜下諏訪         19km
10日目 5/4(祝) 下諏訪〜和田峠〜和田〜長久保       29km
11日目 5/5(祝) 長久保〜長瀬〜海野〜小諸          30km
12日目 5/6(振) 小諸〜追分〜沓掛〜軽井沢          23km
13日目 5/7(木) 軽井沢〜 (碓氷峠) 〜坂本〜安中(新島旧宅)  30km

 1日目、出発式を同志社大学・良心碑の前で行い、雨の中8人「同志社 新島襄 京都・安中」の旗を先頭に約1時間歩き京都駅に着いた。駅前食堂で壮行会を行った時、長尾氏が「同志社90周年の時、同志社精神研究会会員5人が安中から京都・同志社まで逆コースで歩いた」と披露した。その後、私は岸本君とJRに乗り込み関ヶ原の脇本陣に近い民宿に泊った。

 2日目、岐阜から同志社中学校に通っていた教え子・正村君の父親の口添えで、赤坂宿の名家・矢橋邸を見学させて頂いた。旅人をもてなす立派な茶室があり、家訓の「陰徳を積む」という当主の話が印象的であった。加納宿本陣跡の和宮仮泊所前で岐阜新聞の記者からインタビューを受けた。2日後に大きな記事で掲載され嬉しかった。
 3日目、うとう峠を越え立派な中山道会館のある太田宿(昭62年第1回中山道宿場会議開催)に。近くの橋には著名人の俳句が陶磁器に…。川下りを見て私も一句「菜の花や日本ラインの水踊る」。美濃加茂市にはソニーや日立など製造業が多く外国人を多く見かけた。市民の1割強が外国人で駅前ビルにはブラジル人学校があった。
 4日目、中山道みたけ館に入った。「日本最古のゾウ発見」「桃山時代ラクダが来て見物人も びっくり」と地元局がビデオ撮影していた。御岳山は雪深く、小川にはセキレイ、畑には鯉幟。初め苦しい旅になるかなと思っていたが、芝桜、山吹、ツツジ、テッセン、ライラックなど花を愛で、のどかな田園風景を見ていたら「贅沢な旅だなあ」と思った。謡坂の石畳みで昼食を食べ、岸本君に「腰は今のところ大丈夫」と電話し立ち上がろうとしたら、「あれ!腰が…ぎっくり腰?」腰を気づかいながら、中山道の難所・琵琶峠を越え、細久手宿・大湫宿に着いた。ここで泊まる予定であったが、岐阜県人会のゴルフコンペが恵那であるというので正村氏に車で送ってもらった。宿舎で持参した痛め止め薬を飲んだら腰がシャンとした。


 5日目、大井宿(恵那)「山路来て何や羅遊かし寿み蓮草」(はせを)。八重桜は今が満開であった。紫木蓮、ボタン、アシビ、ポピー、チューリップ、シャクナゲ、花菖蒲… 百花繚乱だ。御岳山が見える麓では娘さんが田植え機を操縦していた。絵になる風景だった。落合宿(中津川)で東海道53次を完歩した弟・豊が応援に駆けつけ3日間一緒に歩いた。「これより北木曽路」 馬籠では但馬屋に泊った。夕食時、外国人と日本人が半々だった。食後、囲炉裏を囲んでフランス人家族が7人いた。パリに住む両親を昨年は京都・奈良に、今年は馬籠・妻籠に招待。8時から始まる木曾節の民謡と踊りの講習を待っていた。「私はモンブランに登りパリを訪れた。好きなシャンソン歌っていいですか」と。7人はフランス国歌を歌いシャンソンで交流することができた。これからは宿を提供するだけでなく「文化」という付加価値をつけなくては…と思った。
 6日目 馬籠から妻籠は天候に恵まれた。スイス人カップルとも会い「昨夜シャンソン聞きま したよ」と。空気は爽やかで、枝垂桜や藤の花がきれいだった。弟は「来てよかった。今年の父の誕生日会はここでしよう」と。妻籠から恵那山を見ながら馬籠の石畳を歩き藤村記念館を訪ねるのが今や修学旅行のコースになっていた。
 7日目 新島先生がソバ食い競争をした「寝覚の床」の越前屋に明治初期の写真があった。新島先生たちもこんな人力車や馬車に乗ったのだろう。東京・日本橋から歩いてきた大柄な先生とお供の人に会った。「地下足袋が一番楽だ。これから何回かに分けて京都まで歩く」と。リタイヤ―した人と話をすると、・日本百名山踏破、・四国八十八ヶ所霊場巡り、・東海道53次など「街道を歩く」…。「中山道69次を歩くこと」もリタイヤ―した人の恰好の目標に…。「天下の四関」と言われた福島関所を見学した。「女改め」にふつう2時間を要したと。


 8日目 鳥居峠には野鳥が多く名古屋から早朝やってきた人と歩いた。1,197mの頂上に芭蕉句碑「雲雀よ里うへにやすらふ嶺かな」。険しい峠かなと思ったがよく整備されて歩きやすかった。宿場風情満点の「奈良井宿記念切手」が最近発売されたというので、そこで1シート買い便りを出した。
 9日目  昭25年から発掘され、登呂、尖石と共に当時「日本三大遺跡」と言われた平出遺跡(縄文〜平安時代5,000年の複合遺跡)と「縄文の村」を見学した。冠雪の北穂高や常念岳など北アの山々が見えた。農作業のおじさんは「雪形を見て田起こし田植えなど農事を行う。塩尻ワイン・メルローは02年国際ワインコンクールで金賞を取った」とにこにこ顔だった。塩尻峠展望台からは諏訪湖と富士山、八ヶ岳、北岳が見えた。甲州街道と中山道の合流する下諏訪宿に到着。昨年NHK大河ドラマ「篤姫」で話題となった和宮降嫁の行列絵巻等の資料が新島先生が泊った「亀屋旅館」と下諏訪本陣に展示されていた。和宮は15歳で1861年11月5日に宿泊。皇室と将軍の婚儀で江戸からのお迎え1.5万人、京都からのお供1万人、人馬合計4万人とは凄い。
 10日目 中山道で一番高い峠が和田峠で1,531mだ。狭くて急な坂道を登りながら3千人の人馬は大変だったろうなあと想像した。和田宿の次の長久保宿本陣跡は中山道中最古の本陣で、私が宿泊した浜田屋の女将の紹介で見学させてもらった。加賀や丹波、対馬など多くの大名の看板があった。真田幸村が関ヶ原の戦後の蟄居中「娘をよろしく」と石合家に当てた書状も見せてくれた。司書になる大学生が毎年夏に古文書解読のために来ると言った。宿に戻り風呂に入っていたら急に雷雨の音がした。


 11日目 新島先生は大雨のため険しい笠取峠を避け、迂回して長瀬・北国街道を歩いた。JR大屋駅で岸本君と再会。千曲川に沿って歩くと海野宿があり、「卯建」の看板に興味を抱き資料館に入った。蚕の卵を輸出して大儲けをした人が「卯建」の家を建てたので「うだつが上がる」という言葉になったとか、金を佐渡から直江津・長野・小諸・(高崎・江戸)に運ぶルートとして「北国街道」ができたなど興味深い話を聞くことができた。小諸で懐古園の中の 藤村記念館に入った。藤村はクリスチャンとなり明治学院卒業後小諸義塾で英語と国語を教えた。藤村は柳田國男の話を聞き「椰子の実」を作詞し同志社出身の大中寅二が作曲した。「破壊」は藤村の隣に住む小学校校長・大江磯吉の話を聞き構想を広げ、小諸義塾を辞めて東京で書き上げたと。
 12日目 雨が降り始めた。北国街道と中山道の分岐点「分去れ」に着いた時7℃と寒く枡 形茶屋でソバを食べた。軽井沢のペンションで教職員合唱の仲間2人と合流した。皇太子が美智子さまと出会った軽井沢テニスコートを見に行った。
 13日目 今日も雨だった。30km歩き午後5時頃新島旧宅に着くため8時に宿舎を出発した。 長野と群馬の県境・熊野神社(標高1,200m)で、高齢な2人は急な下り坂なので市川新島学園校長の車に乗って松井田まで下りた。岸本君と二人で碓氷峠(坂本宿まで高度差約750m)を下りた。安中から碓氷峠の熊野神社まで7里余り(約30km)を走る「安政遠足」(侍マラソン、仮装)は日本マラソンの起源といわれ3日後に開催された。坂本宿では「横浜熟年マラソン駅伝」の方々と会った。平均年齢70歳、京都から日本橋まで中山道を3回に分けマラソンリレーする。今日は佐久市の岩村田から高崎、明後日に日本橋にゴールする。「70歳で中山道534kmを9日間で走破」とは凄いなあと感心した。日本で初めてアプト式鉄道が開通した横川駅に着いた。「峠の釜めし」で有名だが、97年長野新幹線開通で信越本線が廃止。軽井沢にはバスに乗り換えねばと客足が減った。松井田で「同志社精神研究会」の仲間3人が加わり、7人で新島ウオークの旗を掲げゴールの安中・新島旧宅に向け歩いた。立派な門構えの半田隆一氏の家があった。第1回新島ウオークの関口氏らはここに泊めてもらい、新島襄の遺髪と硯を見せてもらったと。「日本マラソン発祥の地・安中」という幟があった。もうゴールは間近だ。レインコートを脱いだ。新島旧宅の前には多くの人が待ち構えていた。新島学園の教職員や松井会の人達が迎える中、5時25分ゴールした。


 市川校長が上毛新聞の記者を紹介。私は感想を聞かれ、「135年前に新島先生が教え子の徳富蘇峰ら5名と一緒に歩いた中山道を今教え子や同僚、同精研の仲間達と一緒に完歩することができ大変うれしい。新島先生やりましたよ。」と。磯部温泉で汗を流し歓迎会に出席した。新島学園の市川校長、教頭、事務長、松井同窓会長、前田松井会会長が46年振りの快挙を祝福してくれた。乾杯の後一人ひとりが思いを語った。特に同精研の4人が学生時代実施した「新島ウオーク」の体験談を語り、宴は最高潮に達した。 翌日、新島学園を訪れ、素晴らしいパイプオルガンで市川校長はじめ参加者全員で新島先生愛唱の讃美歌227番「主の真理は」を合唱できたことは最高に嬉しかった。