だいごのじまん


「北米No.2レーニア山登山  21年来の夢に挑戦」

NHK「グレート・サミット〜レーニア山」12月放送予定



1990年C.ミュアーまで登る

 1986年と1990年に、アメリカ・シアトル郊外のオリンピア市 とバックレイに「英語研修ホームステイin シアトル 」のカウンセラーとして訪れた。日本人の中高大学生がホストファミリーの同年齢の子らと一緒に、午前中は学校で英語の勉強、午後は校外学習。週末にはホストファミリーの家でレーニア山(4,392m)を見ながら水泳などして楽しく過ごした。私は両年ともホストファミリーにレーニア山の登山口パラダイスまで車に乗せてもらい、一人でキャンプ・ミュアー(3,100m)まで登った。軽装で雪を踏みしめながら約4時間で登った。それより先は危険でガイドが付かないと登れない。その時、ガイドを付けていつか登頂したいという夢を抱いた。「日本百名山全山踏破」した後は、ヨーロッパ・アルプスなどに目がいき、キリマンジャロとモンブランに登頂。またアイガーやマッターホルンにも挑戦した。
 今年は長年の夢実現のため、レーニア山のIMG(国際登山ガイド)に「いつでも参加できます」と5月初めにメールした。すると「8月28-31日キャンセルが出たので参加できる」と。夢が大きく膨らんだ。すぐに参加申込をすると同時に、一番難しい「雪の剱岳、源次郎尾根」を6月に、「富士山登山」を高山病対策としてダイヤモックスを持ち、教え子の岸本君と7月に実施した。またレーニア山は頂上アッタクの山小屋がないので、食糧や寝袋・マットを持ち上げねばならず、リュックは60-70Lで20kg程度のものになると。私は岸本君に7-80Lのリュックを借り、20kgの荷物を担いで伊吹山に8月に登った。20kgはさすがに重く、右肩がすり剥けコブができた。



富士山に岸本と7/29登頂

 8月26日(金)「登頂率は65%程度」と聞き、緊張感を持ってシアトル入りした。同志社大学ESSの後輩でシアトル日本人学校事務総長である中本卓志氏にSeaTac国際空港からIMGのあるレーニア山麓アシュフォードまで送ってもらった。航空運賃は土日は高いので帰りもシアトルを9月5日(月)出発とした。デルタ航空の往復運賃は正規で関空・シアトル22万円程であるが、私は今年1月「南極クルーズ」に参加するため、成田・ロス・アトランタ経由でブエノスアイレスまで往復デルタを利用した。そのマイレージを全部使ったので5.5万円の支払いで済んだ。 また、IMGの「レーニア山3日間コース」は1,250ドル、歴史的な円高で約10万円であった。昨年夏、(株)アトラストレックの「Mt.レーニア登頂6日間」は47万8000円であった。


NHK取材班のガイド・エヴァンと

 IMGに8/26に着いたので8/26-29コースの人達と親しくなった。ベテランガイドEvan ReckordはNHK番組「グレート・サミット〜レーニア山」の取材班をガイドし、12月放送予定だと言った。誰もいない翌朝、NHK取材班が残していった赤飯やカップラーメンを食べながら日記を書いた。静寂の中、サラサラサラと木の葉が揺れさえずりが聞こえた。何と贅沢な朝だろう。夜は満天の星がギラギラ輝き、一等星は超特大で今にも手で取れそうであった。3日間同じテントで過ごしたが、上高地のような避暑地にいる気分であった。静けさがこんなにも心を安らかにし贅沢なものであったとは…

「まどろみて悠久の調べ山の宿」


左ガイド4人と参加者。皆若い

       

オリテでの装備点検

 8月28日(日)吾チームのメンバー8名が集まりオリエンテーション。まずは自己紹介。ガイドはジョシュアやタイなど4名で、皆2-30代の好青年だ。参加者は私以外は皆アメリカ人で、16歳の高校生、20代後半の夫婦、30代の女性2人、40代前半の男性2人である。私は最年長で68歳だと言ったら驚いていた。
 装備・所持品の点検が始まった。ハーネス、ピッケル、アイゼン、ヘルメット、カラビナ、登山靴、オーバーズボン、オーバーヤッケ、革手袋、ヘッドランプ、サングラス…。寝袋とマット、ストックはレンタルした。寝袋とアイゼンはリュックの外に出すことで、私が持ってきた40Lリュックに所持品が全部入った。ラッキー!「これで登頂できそうだ」という楽観的な気分になった。テント生活が一緒になったシアトル在住のスコットが「ゲストルームがあるから泊って行かないか」と。ビジネスホテルに泊ろうと思っていたので大助かりだ。今日も星が燦然と輝き、午前4時頃には冬の星座オリオン座が見られた。
 8月29日(月) 朝7時半テントの前に女性が立っていた。IMG職員のベッキ―である。私が学生時代、京都国際学校(小学校)で体育の講師をしていた時、利発でチャーミングなベッキ―がいた。また今、日本のタレント、女優、歌手として人気のあるベッキ―がいる。IMGのベッキ―に登頂率や参加者のことなど何度となくメールで質問交流し親しくなった。彼女は日本のベッキ―の様に美しく優しかった。私は富士山のポスターをプレゼントしたら彼女のデスクの前に飾った。彼女からもプレゼントを戴いた。


快晴にガッツポーズのTaji

 午前8時 登山者8人とガイド4人がIMGの前でベッキ―に集合写真を撮ってもらい、ワゴン車に乗ってパラダイスに向った。天気は晴れで、ガイドに聞いたら3週間程こんないい天気が続いていると。パラダイス(1,680m)で下りた。21年前と変わらない簡素な風景であった。土産物店などはない。トイレに行き準備運動をし9:15出発した。登山道を歩き始めると大きな鹿が一匹、またいろいろな高山植物が目に止まった。ストックをつき雪山を登ること3-40分。レーニア山の全容が見える場所に来た。スコットにシャッターを押してもらった。「1時間歩いたら15分休憩を取る。休憩時以外は止まっていけない」とガイドにたしなめられた。


前期登山者仲間とすれ違う

 12:45 「Hi Taji」という声がした。ワシントン大学の職員、セーラの声だ。3日前にIMGで会い、レストランで夕食を食べ語り合った仲間たちだ。マシューやトニーもいた。ガイドは「Tajiは人気者だな」と。陽気で屈託のないアメリカ人。若い彼らに会えてとても楽しかった。
 4回目の休憩。気温は8℃、足元には青白い氷が見えた。「次の休憩場所がキャンプ・ミュアーだ」と、ガイドは少し疲れがでてきた我々を励ました。30分程したら山小屋が見えた。そして14:50、5時間半後に3,100mのキャンプ・ミュアーに到着した。21年前の光景と余り変わらないと思った。しかし、よく見ると避難小屋の数は増えていた。ソーラーパネルを貼りプロパンガスを置いている山小屋もあった。共同トイレもあった。しかし、1団体で8人、3つの登山ガイド組合があると言うから、ガイドを除けば24人しかここに泊れない。1986年と1990年に撮った同じ場所で仲間達と一緒に写真を撮った。



1986年、90年と同じ場所で

 16:30 夕食だ。プロパンガスのある大きなテントまで移動し、ガイド達が作ってくれた夕食を食べた。「taji もっと食べよ」と言われたが…。食べ慣れた日本食品をもっと持ってくるべきであった。お湯は雪を溶かしたっぷりあったので、持参した貝のスープを飲んだ。美味しかった。いろいろ話は弾み、避難小屋に戻って18:30横になった。
 19:30頃だんだん日が暮れ(夏時間のため)夕焼けが綺麗になって来た。外に出てアダムズ山(3,742m)の写真を撮った。山頂の上に二重のレンズ雲/はなれ笠雲が出来ていた。右側には1980年に大爆発したセント・ヘレンズ山(2,550 m)が、遠くにはオレゴン州のフッド山(3,424 m)が見えた。刻々と景色は変わり、雲海がピンク色に染まっていった。レーニア山自身が赤く美しく焼ける姿はシアトルのスペース・ニードルから見られた。


アダムズ山と笠雲

 20:00 オーバーズボンとオーバーヤッケを着て寝袋に入り、毛糸の帽子を被って寝た。突然、強い突風が吹き目が覚めた。午前1時15分頃だった。こんな突風が吹いたら歩けるだろうかと不安になり怯えた。暫く寝付かれなかったので外に出て星を眺めた。温度計は1℃を指していた。


フラッツでデイヴィスと

 8月30日(火)7時起床.。朝食を大テントまで食べに行った。ベーコン付のパンケーキだったが、余り食欲はなかった。食後、転落した時ピッケルを使い杭止める訓練をテント横でした。10時に出発。カテドラル・ギャップを越え、ザ・フラッツ(3,419m)に12時に着いた。高度は320mしか上がっていないのは高度順応のためである。キャンプ・ミュアーで隣の避難小屋の人達は午前1時半頃出発した。きっとその日に頂上アタックをしたと思う。高山病にかからず、みんな登頂出来ただろうか。キリマンジャロに登った時も高度順応の日があった。それをせずに一気に登頂目指した日本人女性は、「頭がガンガンして途中で引き返した」と言った。私達は15時に早めの夕食を取り、翌朝1時頃の出発の準備をし、16時に2人用テントの中で寝た。またしても突風で目が覚めた。なかなか寝付かれず睡眠不足になった。
 8月31日(水)1:15起床、1:30朝食。食事が余り入らない。トイレを済まし出発用意。午前2時半に出発した。前の人の雪跡を踏みながら一歩一歩前進した。そしてディスアポイントメント・クリーバーの岩稜を登って行った。だんだん動きが鈍くなり、皆より少し遅れ始めた。道も険しくなりだんだん息苦しく足が重くなった。するとガイドが「Tajiどうする?このままではみんなが遅くなり登頂できなくなるかも知れない。ここで引き返すかどうか考えてほしい」と。「一人で帰るのか」と聞くと、「他のガイドが一緒について行く」と。しばらく考えて、「残念だが、みんなに迷惑を掛けるので、ここで引き返す」と決断した。だいたい4,000m程のところだろうか。モンブランのようにガイドと自分1人だけなら、Slow & Steadyで必死に登頂を目指したであろう。しかし団体だから「皆に迷惑をかけては」という意識が先に立った。「2人に1人のガイド」でありがたいと思ったが、結局は団体行動であった。


テント前の大クレバス


クレバスを這い上がる訓練

 ガイドのタイは途中で引き返した人達を慰めるため、テント前の大クレバス(氷河の深い割れ目)に行き、ロープをしっかり固定し3-5m滑り落ちてゆくように指示した。私は両方のピッケルを氷河に打ち込み、アイゼンの前の2つの歯を氷河に突き刺しながら這い上がっていった。
 一時は「登頂できるかも」と思ったが、残念ながら登頂することは出来なかった。要因は@キャンプ・ミュアーとザ・フラッツでの突風で、目が覚め睡眠不足になった。A朝晩の食事が余り取れずエネルギー・体力不足に。B4,000m級の山で空気が薄く足が重くなった。(高山病予防のダイアモックスは出来るだけ飲まないようにと指示された)Cグループ登山で、他の参加者は2-30-代と若くついて行けなかった。D頂上アタックの山小屋(食事・睡眠・トイレ)がなかったことも要因の1つだ。今回8人が参加したが登頂できた人は4人で、登頂率は50%であった。後で、Beckyにこの数年間における日本人登山者数について質問したが返事がない。昨年(株)アトラストレック社の企画に4名応募したが、日本語を話せるIMGガイドの事故で実施されなかったと。同社は今年も実施しなかったので、日本人は少ないのではないかと思う。


シアトルからレーニア山夕焼

 世界から登山者を呼び込むには、ザ・フラッツに山小屋があるといいなあと思った。しかし、今の「1ガイド組合に登山者8人」という形態を続ければ毎年登山者が制限され、結果として山の環境が破壊されずに保持されるので、いいことかなあとも思った。
 今回参加した人の中には5月、9月に登って登頂できなかったという人が3人いた。今回の経験を踏まえ再度挑戦すれば、登頂できる確率は高くなるであろう。しかし頂上アタックの山小屋のあるヨーロッパやネパールの名峰に比べると、もう一度挑戦したいという気持ちは私的には低い。しかし、NHK番組で「グレート・サミット〜レーニア山」が今年12月に放送されるので、若い日本人が私の反省を踏まえ、北米No2の「タコマ富士」に挑戦してくれたら嬉しいなあと思う。


スコット宅でTajビール


アメフト地元勝利で夫妻歓喜

 登山後、元高校理科教師で、今はワシントン大学でナノテク研究をしているスコットの家に泊り、アメフトの試合を一緒に観戦したり、イチローのシアトル・マリナーズの試合を中本氏と観戦することができた。マイクロソフト社で働くインド人達とシアトル大学のコートでテニスをすることもできた。


イチロー2安打1打点

 中本氏に日本人補習学校を案内してもらい、翌日は日本人教会で聖餐式の後の愛餐会で、混御飯や小芋など手作りの美味しい日本料理を戴いた。楽しく交流することもできた。


インド青年とテニス


現地校借り土曜開校の日本人学校

 スチュワーデスのジュリーは愛車ハーレー1200ccに乗りレーニア山麓のパラダイスまでよく行くと。私が1990年に訪れたBuckleyもよく知っていた。柴野智子のホストファミリーとアームストロング氏に電話してほしいと頼んだら「喜んで」と。今回ホストファミリーに会えればと中本氏に頼んだが21年の壁があり、住所変更等でなかなか連絡が取れなかった。是非会いたかった二人に最後の望み、ジュリーに期待したい。
 明るく心の広いアメリカ人や日本人にたくさん出会うことができ、楽しい思い出が一杯でき大感謝である。


日本人学校中本氏と日本人教会で


美味しい日本料理。右牧師夫妻