だいごのじまん


「大坂から暗峠、奈良、宇治、坂本、比叡山越で
京都三条大橋  130kmを4日間で完歩 」


 私は同志社の創立者・新島襄先生の足跡を辿って、2009年に「京都 安中 中山道365kmウオーク」を、2010年に「安中 会津、白布ウオーク」を、今年は標記のウオークを実施した。理由は新島のこの旅がきっかけで、同志社が大阪でなく京都で開校となり、興味を持ったからだ。もう少し詳しく説明すると、新島襄は明治7年11月米国から帰国し、明治8年1月大阪(川口)外国人居留地のゴードン(宣教師)宅に仮住まいした。「大阪会議」で来阪中の木戸孝允(米国やドイツで親交)を訪ね、「大阪での学校設立にご尽力を」と頼んだ。しかしキリスト教嫌いの渡辺昇大阪府知事の賛同を得られず大阪を断念。神経性頭痛と不眠に悩む新島にゴードンは気晴らしに京都御所で開催中の第四回京都博覧会(3/1-6/8)の見学を勧めた。新島は一人で明治8年4月1日(木)リュックと杖と傘を持って、大阪、奈良、京都の旅に出た。私は新島襄の英文日記「奈良、宇治、石山、京都行ノ記」を丹念に読んだ。そして下見を7回し、教え子ら7人と歩き、4日間で130kmを完歩した。

4/30(土) 大阪(川口基督教会)〜308号線〜東大阪〜暗峠〜奈良  38km、10時間
5/1(日) 奈良〜 木津〜新田〜宇治(菊屋)           28km、6.5時間
5/2(月) 宇治〜黄檗山〜二の尾〜石山寺〜瀬田唐橋〜大津     35km 10時間10分
5/3(火) 大津〜唐崎の松〜坂本〜比叡山〜修学院〜三条大橋    29km、9時間55分
         約18万歩            合計    130km、36.5時間

私は新島が仮住まいのゴードン宅(川口与力町三番、のち本田三番町三二番)から出発したいと思ったが、桃山学院史料室で居留地研究会の西口忠先生にお聞きしたら「その場所は正確には分からない」と。そこで川口居留地のシンボル・川口基督教会から出発した。(後日、西口先生を訪問した時「本田三番町三二番はここです」と明治41-2年の古地図で調べてくれた)。同教会の内山望牧師は「レンガ造の教会塔は阪神大震災の時液状化で傾き損傷した。川口居留地は立教大学や桃山学院、大阪女学院、平安女学院などいくつものミッションスクール発祥の地です」と。前夜ホテルに来てくれた教え子の中尾憲和(同大3年)と花園ラグビー場まで歩いた。


川口外国人居留地


明治初期の居留地


川口基督教会を中尾と出発


街道の碑文

 新島は伊勢参りの人が見送りの人と別れる玉造稲荷神社付近で高木医師と別れ、暗峠入口まで人力車に乗った。入口の近鉄枚岡駅から急な坂道で、私は汗を拭きながら55分後に生駒山地の難所・暗峠(455m)に着いた。途中、芭蕉句があったので私も一句「杖持たず暗峠初音かな」。お伊勢さん詣の道で、今春芸人の紳介が歩いたというので峠の茶屋は賑わっていた。「東北支援日本ガンバレ 同志社新島襄 大阪奈良京都」と書いた幟をリュックに付けていたので同志社卒の人らが話しかけてくれた。バイクで全行程を2回下見したが、暗峠と榁木峠の間で道に迷った。国道308号線とは言え運転手も知らないマイナーな超狭い道だ。南生駒駅や尼ヶ辻駅を通り、試合帰りの中学生達と話しながらJR奈良駅に着いた。38kmもあり10時間かかった。
 二日目 新島は木津まで歩き宇治まで人力車で行く。宇治茶に興味を持ち、平等院を訪れ「川の畔の菊 屋に泊る」。1貫500文(37.5銭)の上等な旅籠だ。教え子の稲房直(稲房安兼店主)に「新島が泊ったのは今の表参道にある『きくや』か」と聞いたら、「否、私の店の北隣にあった大きな旅館で、萬碧楼から中村藤吉平等院店と何代も替わった」。「新島は黄檗山に行くのに渡し舟で隠元橋まで行くけど」と聞くと、「その船着場が菊屋の裏のここです」と教えてくれた。宇治市歴史資料館に問い合わせたら「間違いない」と確認できた。
 三日目 新島は万福寺を通りナガサカの地蔵へ行こうとして三室山で道に迷った。私は三室山のどこで迷ったのか検証しようと 一人で歩いてみた。宇治カントリー倶楽部に沿って南に幅3-4mの道がある。15分程歩くと道は細くなり三差路に来た。小川を横切り左にUターンすれば宇治C.Cと日清都C.Cを結ぶ小道(私はその小道を歩く)に当り長坂峠、炭山に行ける。しかし新島は川に沿って真っ直ぐ上り道が途切れて間違ったことに気づく。三差路に戻ればよかったのにそのまま山頂(高峰山)に行こうと途なき急坂を登る。途中樵に出会い日清都C.Cへの道を聞き、長坂峠を越えて炭山への道を見つけた。迷った道は三室山の裏山、今の高峰山であると実地検証して確信した。


急な坂の暗峠


暗峠に到着


宇治平等院


新島宿泊の菊屋と船着場

 新島は炭山で喜撰の茶を飲み、二尾の松田孫左衛門方で食事をする。英語でI took my dinnerと。山で迷った後、美味しいご馳走を戴いた感動が伝わってくる。二尾でバッタリ会った藤田千代次区長に隣の家の松田孫左衛門のその後のことを聞くことができた。宇治茶を栽培しているので、「新島が味わった玉露を」とお願いした。熱湯を冷まし最後の一滴まで搾り出した茶を飲んだ。その美味しくてまろやかな味に舌を巻いた。新島は松田孫左衛門の牛で石山寺まで行き、瀬田の唐橋から大津まで人力車に乗った。私も足が痛み始め靴下を脱ぐと両足に水膨れが出来ていた。新島は「八丁の高島屋」に泊る。過日、大津市歴史博物館を訪れ八丁の古地図をコピーした。「屋号が高島屋というお店がある」と聞き訪ねたが、「高島町出身で創業60年。旅籠ではない」と。江戸時代からの旅籠「富田屋」を訪れた。八丁で残る旅籠は「草津屋」「東園」の三軒で都市再開発で5年もすれば立ち退き無くなるだろうと。
 四日目 新島は三井寺を訪れ、また今の2倍もあった「唐崎の松」を見る。新島は今日が日曜日だと分かり坂本の竹屋文左衛門方で泊る。私はJR坂本駅で教え子3人岸本展、北川晋也、片岡省太と松井会の蔵岡信彦と合流し比叡山越えをした。新島は五日目の早朝、比叡山(848m)目指して出発し1時間で根本中堂に到着した。「早足だなあ」と感心した。私は下見の時根本中堂まで55分で登ったが、今回は古希の人もいてゆっくり歩き1時間半かかった。法然上人800回忌で賑わっていた。釈迦堂の前には水琴窟があり2本水が垂れ美しいハーモニーを醸し出していた。八瀬行のケーブル駅に向かうとミツバツツジが満開で美しく鹿の親子が吾々を見つめていた。ケーブル駅では千日回峰の写真展が開催され、同志社小中高の校舎や国際会館、御所、同志社大学などが見渡せた。新島はほとんどずっと雨で見晴しは悪く道を見失いかけた。教え子達は「唐松岳登山」(白馬岳の南2696m)の予備訓練で登ったキララ坂を懐かしがっていた。修学院駅で待っていた畝目襄治、河村隆夫、前田良平と合流し河川敷を歩いた。たんぽぽや菜の花など明るい景色を満喫し、ゴールの三条大橋に5時15分に到着した。新島は正午に到着と健脚である。私の計算では新島は約130kmの内、半分を歩き、半分は人力車等を利用した。
 私は同志社が京都で開校するきっかけとなった新島の足跡を完歩することによって、新しい発見が9つもあり、新島研究会で発表した。また最初と最後の日に教え子らと一緒に歩けたことも嬉しい。
 翌日、taji club の「ご苦労さん会」を私の家で行い、東京など遠来の8人の教え子らと親睦を深めると同時に「東北支援」の義援金3、2万円を集め、地元の新聞社を通して贈ることができたのも嬉しい。


藤田宅で玉露

      

教え子らと叡山越え


鴨川河川敷を歩く


ゴールの三条大橋