だいごのじまん


田島 繁さん(15組)から素晴らしい投稿を頂きました

夢・ロマン「キリマンジャロ登頂」


 私は04年8月6日に日本百名山を全山踏破し、その後「世界の名峰」に挑戦しようと05年3月24日、東南アジア最高峰のマレーシアにあるキナバル山(4101m)に登頂した。その時出会った福岡のA氏から「田島さんならキリマンジャロもモンブランも登頂できますよ」と言われ、アルパインツアー社を教えてもらった。帰国後、同社に電話し「アフリカ最高峰・キリマンジャロ登頂13日間」の企画を知った。コーヒーの名で知られるキリマンジャロ山はピッケルやアイゼンなしで登れる世界最高峰の山なので、是非登りたいと医師の記載する健康調査書を付けて参加申込をした。
 しかし7月3日の日曜日、家の植木鉢を動かしていた時ギックリ腰になった。シマッタ!キリマンジャロ登頂は夢に終ってしまうのかと落ち込んだ。以前治してもらった整骨院に4回通い、やっと光が見えてきた。
 8月4日、関空から11時間半かけてオランダのアムステルダムに着き、そこで成田発の人達と合流した。日本百名山を全山踏破した高校の先生が1名いた。また、数年前キリマンジャロに登ったけれど、登頂寸前で寒気がし、頭がガンガン、顔が蒼白となり断念したという女性もいた。男性8名、女性5名とリーダー1名の計14名であった。
 タンザニアに行く飛行機の窓からは、雪に覆われたマッターホルンやモンブランなどアルプスの山々が見られ、また延々と続くサハラ砂漠を見て感動した。アムステルダムから9時間後キリマンジャロ国際空港に着いた。朝、野鳥の囀りで目が醒めたが、ここが赤道直下のアフリカかと思うほど肌寒く面食らった。標高約1,900mである。
 バスで登山入口のマラングゲートに着くと、現地登山リーダー始め8名程のポーター、食事係がいて心強く思った。苔が鬱蒼とした熱帯雨林帯を通り、マンダラハットで泊まった。山小屋の電気はソーラー発電だった。私は富士山に2回登り、2回とも高山病にかかったので、約2倍の高さ6,000m級のキリマンジャロ登山では高山病を一番心配した。高山病対策としてリーダーの松本氏はダイヤモックスという薬を毎日半錠飲むことを薦めた。2番目の山小屋ホロンボハットでは、おしっこが近くなり、真夜中と朝4時頃トイレに行った。さそり座が日本では南の地平線上に見えるけれど、赤道直下では真上に見えた。また南十字星など南半球の星がギラギラ光っていて感動した。

「あれやこれ南十字にみなの指」

 3,700mのホロンボハットでは高度順応として半日トレッキングをした。無駄のように見えて大切な予備日であった。日本人の一人でやってきた活発な女性・マリさんは、予備日のないコースで40万円程(ドバイ経由)と費用の安さを強調した。しかし結果的には彼女は寒さと頭がガンガンして登頂を断念した。やはり登山ツアーに入ったほうが費用は60万円と高いけれど、安全で目的成就のためにはベストだと思った。
 いよいよ最後の山小屋ギボハットとキリマンジャロ登頂を目指した。8月9日朝8時半ホロンボハットを出発。足がつりポーターに肩車してもらう女性もいた。午後4時にギボハットに到着した。指先で血液中の酸素(SaO2)を測ったら、85以上なければならないのに私は78だった。リーダーから「気をつけて下さい」と言われた。空気が薄いせいもあって2時間ほどしか仮眠できず午前0時半に出発した。頂上はマイナス10度位になるのでスキーウエアーを着、ヘッドライトを灯してゆっくり歩き始めた。高度が増すにつれだんだん呼吸が荒くなり、睡眠不足もあって休憩のたびにストックに頭をうなだれた。5時半ごろ朝焼けがきれいに見え始めた。キリマンジャロの第一の頂上Gilman’s Pointに午前7時頃着いた。ほうほうの体であった。私はもうこのGilman’s Pointが限界かなあと思ったが、リーダーは私までの8名、女子2名・男子6名に「Peakまでゆきましょう」と。私はリーダーのすぐ後について歩き始めた。Peakがなかなか見えなかった。大氷河を横に見ながら1時間半後、やっとキリマンジャロの頂上UHURU PEAKに着いた。05年8月10日午前8時30分5,895mのSummitに着いた。感極まって先頭の人が日章旗を取り出した。マナスルに登頂したような気分であった。前に広がる大氷河を見ながら何枚も写真を撮った。感動の一瞬であった。
 下山し始めたら65歳の男性が動けなくなった。リーダーは「Mさん、あなたが行こうと言ったでしょう。帰りましょう」と、寝ないようにホッペタをパチパチ叩いた。そして両脇をリーダーと現地サポーターが抱え、強引にGilman’s Pointまで下ろした。私はMさんの歩き方を見て「ヘリコプターを呼ばねば。予定が1日ずれるのでは」と思った。しかし酸素ボンベで30分程酸素吸入したら、Mさんは元気を取り戻し一人で歩けるようになった。ギボハットで少し休憩した後、すぐに下のホロンボハットまで歩き始めた。到着したのは午後6時半であった。ということは、往きにギボハットで2時間仮眠しただけで25時間半歩き続けたことになる。帰りのギボハットで、イギリス人医学生が測った私のSaO2は44であった。日本人ガイドの松本氏は以前38になり、1週間緊急入院したという。危ないところであった。やはり6,000m近いキリマンジャロは普通の山ではなかった。
 登山口のマラングゲートには、頂上が雪に覆われていた30年ほど前の写真があった。しかし今は温暖化の影響で氷河が激減している。数十年後には「キリマンジャロの雪」は伝説になってしまうかもしれない。その登山口でキリマンジャロ登頂証明書が手渡された。「Summitまで行けたとは素晴らしい」とみんなから祝福された。
 私はどんな国から登山者が来ているのか興味を持ち、山小屋で「What country do you come from?」と聞いてみた。「Switzerland、Spain、France、Holland、Canada、America、New Zealand、Korea」等16ケ国の人達と話すことが出来た。また、登頂後、Arusha国立サファリーパークに立ち寄った。そこで愛知地球博のタンザニア館で会った同公園副所長のGodsonと再会することができた。Mail addressを交換し、世界の人達と交流できることは登頂と同じく大変嬉しいことである。